業力とアラヤ識の秘密
自因自果と思えない事例2
前回に引き続き、
自因自果と思えないもう一つの例です。
あるところで、優先道路を、
制限速度を守って安全運転で走っていたら、
横から一時停止せず、
ものすごいスピードで、車が突っ込んできました。
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私────→☆
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その結果、ガチャンとぶつかって、大怪我をしました。
そんなとき、
「もー、痛いなー。こんな目にあったのは、
この車がつっこんできたからだ、この忙しいのに!」
と思います。
こういう事故の時は、警察でも保険会社でも、
細い道から飛び出してきた無謀なドライバーが悪いと思います。
こんな場合は、この滅茶苦茶な運転をしてきた
ドライバーの種まきによって自分が苦しんでいるという、
「他因自果」なのでしょうか?
なぜこれが自因自果なのか
ところが仏教では、こんな場合でも、
「自因自果」だと教えられています。
それはなぜでしょうか。
もし10秒でも3秒でも遅れてくれば、
または早く走っていれば、
こんな事故にあわなかったのに、
ちょうどこんな車が飛び出してくるような時に、
ここを通らなければならなかった。
ちょうどこんな車が飛び出してくるピッタリの時間に
この場所を通らねばならなかったことには、
原因があります。
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なぜなら、この先に行った車も、後を走っていた車も
たくさんあったのに、事故にあいませんでした。
「すべての結果には、必ず原因がある」
もしこれが本当だとすれば、
事故に遭った私だけしか持たなかった因があるのです。
ではこの飛び出してきた車は何かというと、
前回お話ししましたように、
仏教では「縁」といわれます。
私が持っていた因と、この縁が結びついて、
事故という結果が起きたのです。
やはり自因自果以外にはありません。
これは悪い縁を放置していいということではありません。
なくしていかねばならないので、
それをとりしまる法律や警察があるわけです。
また、悪い縁はさけてゆかねばなりません。
しかし、因は私にあるということです。
なぜ自分の行いが自分の運命を生み出すのか
ではなぜ私たちの行いが、
私たちの運命を生み出すのでしょうか。
実は私たちの行いは、目に見えない一つの力となって残るのです。
これを「業力」といいます。
しかもそれは、消えてなくなることがありませんので、
「業力不滅」といいます。
絶対に消えない業力となって残っています。
この業力が、私たちの「アラヤ識(あらやしき)」
という心の中に蓄えられます。
「アラヤ識」とは、私たちの本当の心です。
そしていつまでも消えません。
絶えず業力をおさめて変わりながら続いてきます。
私たちは毎日、心と口と身体で色々の行為をします。
仏教では、身体だけでなく、
口でしゃべれば口の行い、
心で思えば心の行いです。
その行いが全部業力となって
アラヤ識におさまります。
だからアラヤ識を、蔵のような心、
「蔵識」とも言われます。
(「アラヤ」とは蔵という意味)
藏には、大事なもの全部おさまっていて、
母屋が火事になっても残ります。
そして蔵にしまっておいた財産で、
もう一度母屋を建て直すことができます。
アラヤ識(阿頼耶識)とは
アラヤ識は不滅の生命ですので、肉体が滅んでも、
過去から現在、未来に向かってずっと続いていきます。
そこに心と口と身体の行いが、
全部おさまってしまいます。
このアラヤ識は、私たちが生まれる前、過去世から、
そして現在世、死んだ後の未来世へ、
業力をおさめて絶えず変化しながら
ずっと続いていく生命の実態です。
私たちは、この肉体や意識が私だと思います。
ところが仏教では、この肉体や意識は、河の水面に
ぽっとできて、しばらく流れて消えてゆく、
アワのようなものだと教えられています。
アワができても、消えても、
水の量は増えもしなければ減りもしません。
平均寿命が延びたといったってあっという間に
人生は過ぎてしまいます。
病気が治ったといっても、死ななくなったのではなくて、
死ぬのがしばらく延びただけです。
永遠の生命であるアラヤ識からいったら
ほんの少しのことです。
過去からつくってきた種まきは全部、
目に見えない業力となって、
アラヤ識におさまって流れてゆきます。
そして縁が来ると、目に見える運命が花開きます。
縁が来たとき目に見える運命が現れる
これを分かりやすく教えられた歌があります。
年毎に 咲くや吉野の山桜
木を割りてみよ 花のありかは
毎年きれいな花を咲かせる吉野山の桜も、
冬に行くと枯れ木のようなものが
つくんつくんと立っているだけです。
「あのきれいな花はどこから来るのだろう」
と思ったある男が、桜の木を割ってみました。
ところが、何も見つかりません。
しかし、枯れ木ではありませんから、
春になると、花を咲かせる力のようなものが、
桜の木にあります。
それが、春の陽気にふれ、縁にふれて、
きれいな桜の花を咲かせるのです。
これを
年毎に 咲くや吉野の山桜
木を割りてみよ 花のありかは
といわれています。
ちょうどそのように、
私たちのやった行いは、目に見えない力となって
アラヤ識におさまります。
そしてある縁が来ると、交通事故とか、
前回の例でいえば結婚とか、
目に見える運命を引き起こするのです。
業力の強さ
今回の交通事故の例でいうと、
ちょうど車が飛び出してくる時に、
その場所へ車を運転して来なければならなかった
目に見えないものすごい力があります。
それが、業力です。
業力は大象百頭よりも強いと言われます。
象というのは、お釈迦さまの当時のインドで
最も強い力を持ったものです。
最強の100倍にはとても逆らえません。
その業力によって、この時、この場所に引きずり出されるのです。
その業力は誰が造ったかというと、自分の行為です。
このように、私たちの行いが目に見えない業力となって、
縁がきたときに、目に見える運命となって現れるから、
間違いなく自因自果なのです。
仏教で自因自果の因果の道理が説かれた目的
では、この深い深い因果の道理が、
なぜ説かれているのでしょうか。
それはあなたを絶対の幸福へ導くためです。
仏教の目的である、絶対の幸福は、
肉体や意識ではなく、この永遠の生命の解決です。
だから、死によっても崩れない、
未来永遠の幸福になれるのです。
肉体や意識を喜ばせようという
世間の色々な学問やノウハウ、
技術とは次元が違います。
絶対の幸福は、
肉体や意識を喜ばせる相対の幸福と
比較にならない幸福なのです。
その絶対の幸福になるには、
仏教を聞かなければなれませんし、
仏教の根幹である、因果の道理が分からなければ、
仏教は一切分かりません。
迷いの深い私たちには、
因果の道理はなかなか分かりませんので、
よくよく真剣に仏教を聞かせて頂きましょう。
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